2007 日本山岳耐久レース 〜ハセツネ〜
相馬 剛
1974年1月生まれ 33歳
小笠原諸島父島在住(2006年4月より)
海上保安庁勤務
20-26歳 トライアスロン(オリンピックディスタンス)
(関東選手権3位など)
26-32歳 フリークライミング
(ロープクライミング:最高グレード14A、
ボルダリング:最高グレードV10)
33歳-(2006年4月より) トレイルラン
・2006年日本山岳耐久レース 8位(8:48)(初レース)
・2007年OSJハコネ50K 3位
・2007年日本山岳耐久レース 優勝(8:03)
スタートまであと1時間、私は会場に置かれた「ハセツネカップ」の前に立ち、華やかではないが伝統や格式が感じられるそのカップを見つめていた。あと10
時間も経たないうちに、自分がこのカップを掲げる人間になることを思い描いてみたものの、なぜか気持ちがフワフワとして、いまひとつ現実感が沸かない。
緊張や不安も驚くほど感じなかった。スタート直前になっても気持ちの昂ぶりが起こらなかったため、強引に集中しようといろいろ試みたが、それでも気持ちは
落ち着いたままだった。
走りたい・・・こんな純粋な気持ちで、この日を迎えることができ素直にうれしかった。
1年という時間
この1年、私は「ハセツネ」に囚われていたと思う。トレーニング中はもちろん、それ以外の多くの時間も、暇さえあればこのレースのことを考えていた。それ
は、偏愛とも言える感覚であったが、同時に、私の生活に明確な基準を与えてくれた。
「全てはハセツネのために」
人は日常を生きていく中で、たくさんの「判断」や「選択」という行為を繰り返しているが、そういったことで迷うことが少なくなった。生活にしっかりとした
支点ができたおかげで多くのことに対しバランスをとることができるようになった。
実際のトレーニングは、ほぼ計画通りに進んだ。1月と2月は慢性化している右足の足底筋膜炎が悪化し、ほとんどトレーニングできなかったが、それ以降、5
月の「OSJハコネ50k」までしっかりとしたベーストレーニングができた。走り込みだけで臨んだハコネでは、やはりレースペースの負荷に耐えることがで
きず肝心な勝負どころでペースを上げることができなかった。それでも、3位に入賞できたことは、ハセツネまでの5ヶ月間で十分なチャンスが生まれることを
意味していた。
まず、6月から8月の3ヶ月間を再び走り込みに充てた。夏場にもかかわらず月間走行距離は700kmを越え、心身ともに厳しい日々が続いたが、私はこんな
泥臭いトレーニングが大好きだ。9月に入り、最初の1週間で走り込みの疲労を抜いたあと、ポイントトレーニングを開始。基本は、1000mのインターバル
と40km走、それに5000mのタイムトライアルをジョグかレストで繋ぐ。この時期、注意しなければならないのは、疲労を溜めすぎないこと。そのバロ
メーターとして5000mのタイムトライアルを利用し、セッション毎にこのタイムが上がっていくように調整していった。
この他にも、私のトレーニング全体を通じて、いくつか核心をなす部分があるが、それは言えない。私自身、試行錯誤中であるし、選手として現役であり、ライ
バル達よりも1歩抜け出したいと思っているからだ。
私には昨年のハセツネを終えた段階で思い描いた「なりたい自分」というものがはっきりイメージできていた。そして、トレーニングによって、現実の自分をそ
のイメージに近づけていくという作業を続けてきた。
1年という時間が過ぎ、私はほぼ「なりたい自分」になれたような気がする。この頃には、何パターンものレース展開やアクシデントが発生した時の対応、ゴー
ル後のガッツポーズまで決まっていた。
2007日本山岳耐久レース
私の住む小笠原と本州を結ぶ唯一の交通手段は週1回の船便だけ。そのため現地入りは10月15日。翌16日には昨年もっとも苦労したスタートから浅間峠ま
でを試走したが、レースに近いペースを意識したにもかかわらずタイムは2時間50分。予定タイムよりも15分も遅く、これには少し落ち込んだが、試走は試
走と割り切って、その後は、レース当日まで映画を観たりしてリラックスした時間を過ごした。もちろん、レース2日前には最終刺激を入れて身体をレース仕様
に仕上げることも忘れなかった。
1年の集大成の時が迫っているはずなのに、レース前夜は本当に良く眠ることができた。開き直っている感じでもない。自分はこんなに鈍感だったかなと思った
が、やるべきことをやった時はこんなものかもしれない。
レース当日は快晴。当然、私にとって良い日になるだろうと予感していた。レース会場では、多くの顔見知りの選手と会うことができ、普段、周囲にトレイルラ
ンニングというスポーツを知る人間がいない環境で暮らす私にとってとても楽しい時間だ。
スタート5分前、相変わらず胸の高鳴りがないままスタートラインに立った。とにかく、自分の全てをコース上に置いてこよう、ただそれだけを誓い、厳しく長
大な72キロの1歩を走り始めた。
スタート直後から飛ばす。いつのまにかこれが自分のスタイルになっていた。特に前半型とか後半型とかを意識しているわけではなく、小細工なしに最初から単
独で逃げ切りを図るというシンプルでアグレッシブなスタイルに憧れているのかもしれない。
今回のレースでは、最初と最後の区間ラップを取りたいと考えていた。これにも、特に深い理由はないのだが、あえて言うなら他の選手があまり立てない戦略な
ので面白そうだったからだ。
しかし、そんな浅はかな戦略は最初から崩れ落ちた。一昨年のハセツネで3位になった奥宮選手が、私を上回るペースで飛ばす。入山峠まで下りも上りも全て
走っていたが、それでもすでに2分差がついていた。奥宮選手が真の実力者であることはわかっていたから、このペースでレースを組み立てるだけの勝算がある
のだろうと思った。
自分がやろうとしていたレースを目の前で見せつけられ、少しモチベーションを失いかけたが、それ以上に奥宮選手の走りに共感し尊敬する気持ちの方が強かっ
た。このレースで、優勝を狙って最初から飛ばすというのは、相当なトレーニングを積んでいないとできないことだ。
その後も、差は開き続けCP1の浅間峠では5分差まで広がっていた。私のタイムも2時間30分を切っていたから、それほど悪いタイムではないのだが、その
差は縮まらなかった。結局、入山峠から大岳山山頂までひたすら単独走が続き、前にも後ろにも他の選手の気配はなく、時折、コース上のスタッフから伝えられ
る奥宮選手とのタイム差だけが、自分が今、レース中であることを確認できる唯一の情報だった。
昨年同様、三頭山山頂でライトを点灯し、ガスが立ち込め視界が利かないトレイルを下る。この時点では、先を行く奥宮選手に追いつくことも、自分がどのくら
いのタイムでゴールできるかもまったく考えられなかった。とにかく、1歩1歩に集中して1秒でも速く走ることだけを考えていた。
CP2の月夜見駐車場に4時間57分で到着。ハイドレーションパックへの給水はパスし、1リットルほどの水を一気に飲み干しすぐにスタート。トップとの差
は5分。ここでやっと具体的なレース展開が見えた。トップの奥宮選手と自分のペースはほぼ一緒、大岳山まではこの差をキープして、そこからの走りやすいト
レイルで一気に抜こうと考えた。
ここでも誤算があった。しかし、今度は良い意味での誤算であり、御前山、大ダワと通過するたびにタイム差が縮まっていった。ペースを上げたつもりはなかっ
たので、奥宮選手のペースが落ちてきたのだろう。彼ほどの選手がまさかと思い、少し信じられなかったが、大岳山山頂では1分差となり、岩場の下りで、つい
に50キロに及ぶ単独走が終わった。
少しの間、奥宮選手の走りを観察した。やはり疲れているのか、前半の伸びのある走りではなかった。すぐにスパートを仕掛け、ライトの光が100mほど後方
に離れたことを確認し、さらにペースを上げた。正直、これで「勝った」と思った。しかし、簡単に勝たせてもらえるほどこのレースは甘くなかった。なんと今
度は奥宮選手が私の後ろにピタリとついてくる。一瞬、他の選手が追いついてきたのかと思い名前を聞いてしまった。本当に驚いた。この時、私はこの勝負に集
中しなければ最後に負けると思った。それほどまでに、彼の走りからは勝利への執念を感じた。もう、時計は必要ない。
二人の探り合いが続き、ペースは乱高下を繰り返す。御岳山の水場では、再び私が仕掛け、奥宮選手が給水中にスパート。私自身も、ここでの給水を前提に
CP2での給水をパスしたのだが、どうしても少ないチャンスをものにしたかった。しかし、このスパートも決まらない。スパート成功の鍵は相手が諦めてくれ
るかどうかだ。心が折れない相手にスパートは決まらない。
CP3の長尾平には二人同時に到着したが、ここから、今度は奥宮選手がスパート。離されまいと必死についていき、日の出山の上りで再び追いついた。一体こ
の勝負はいつ終わるのだろう・・・一瞬の隙も見せることができず、補給もライトの電池交換もできなかった。
日の出山山頂から、再び奥宮選手がスパート。すごいスピードだ。あっという間に100m以上離され、最後の勝負にでていることがはっきりと伝わってきた。
本当に強い選手だ。レース前、心の片隅では、どんな展開になっても勝てる自信があったし、タイムも最低でも8時間を切りたいと考えていたが、そんな傲慢な
気持ちを見透かされたような状況に気持ちが折れそうになる。
もう一度、自分を見つめ直した。前半から中盤はトレイルとの勝負であった。後半は奥宮選手との勝負。そして、最後は自分との勝負だ。結局、僅かに残った自
分の力をゴールまでに出し切るしかない・・・そう思ったら、なぜか、とても清々しい気分になった。
幾度目かの併走。これが最後になることはお互い感じていた。残り8キロか7キロくらいだったろうか、ゆるやかな上りが続くトレイルで、その瞬間は不意に訪
れた。いつのまにか奥宮選手の前に出ていた。一気にいくしかない。もう後ろは振り返らないと渾身のスパート。ハンドライトの電池が切れトレイルが良く見え
ず、危ない転倒も2回あった。それでも集中力はどんどん高まり、次第に自分と1本のトレイルだけの世界になっていった。
私たちのようなトップ選手は競技性を追及するあまり、トレイルランニング本来の魅力を感じていないと言われることがあるが、極限状態だからこそ感じること
もあると思う。
このまま走り続けたら、自分が山に溶けてしまいそうな感覚・・・この時、感じた自然との一体感は、これからの私に新たなモチベーションを与えてくれるだろ
う。またいつか、この感覚を味わいたい。さらにトレイルランニングが好きになってしまった。
武蔵五日市の住宅街まで来て、後ろを振り返ると、そこにはもう誰もいなかった。先程まで感じていた不思議な感覚はすでに失われていたが、その代わりに安堵
感やうれしさが猛烈に込み上げてきた。
ゴール。本当に本当に最高の気分だ。全ての人や物に感謝の気持ちで一杯だった。
満たされない心
一睡もできないまま翌日の表彰式を迎え、念願の「ハセツネカップ」をようやくこの手にすることができた。最高の目標を達成した瞬間のはずだったが、ゴール
の時のような突き抜けるほどの感情は起こらなかった。
人間はどこまで強欲なのだろう? コースレコード、7時間33分、7時間12分、そして6時間台・・・一つの山を越えると、その先にあるさらに高い山を目
指す。まさにトレイルランニングそのものではないか。私は、自分がこの性から逃れられないことに気付いている。そして、世界にはまだ見ぬトレイルが無限に
存在する。私にも、いつの日か心が満たされ、安息の日々が訪れることはあるのだろうか?
今回のレースを走り終え、改めて昨年の沁選手、鏑木選手のタイムの偉大さがわかった。その中でも、沁選手がCP1からCP2で叩き出したラップタイム、2
時間11分は今の自分にはイメージできない。それ以外のラップタイムは十分、許容範囲内であると思うが、このラップタイムだけが突出している。
逆に言うと、今後、タイムを短縮するための大きなヒントが、このラップタイムに隠されていると思う。いくつか具体的に思い当たることもあるが、いずれにし
てもトレーニングをしていく中で、少しずつその答えが見つかっていくのだろう。
新しい1年のはじまり
8時間台が18人。昨年の沁選手と鏑木選手の走りは私も含め多くの選手に影響を与え、今年のレースはそれが反映された結果となった。私も多くの選手に刺激
や勇気を与えることができるような選手になりたい。
1年前、私はそこそこ速いがごく平凡な選手だった。そんな私でも1年間のトレーニングでハセツネに勝てる選手になれた。時間は誰にとっても平等に流れるも
のだから、これから1年、真剣にトレーニングすれば必ず「なりたい自分」になれると思う。多くの選手に可能性があるはずだ。
10月21日午後1時、最後の完走者を見届け、私のハセツネはようやく終わった。
そして、また新しい1年がはじまった。
今大会中に亡くなられた選手のご冥福を心よりお祈り申し上げます。同じ志しを持った故人のためにも、これからもハセツネを大切にしていきたいと思います。
タイム・装備
CP1通過 2時間29秒32秒
CP2通過 4時間57分21秒(ラップ2時間27分49秒)
CP3通過 6時間57分21秒(ラップ2時間00分00秒)
ゴ ー ル 8時間03分38秒(ラップ1時間06分17秒)
バックパック ザノースフェイス マーティンウイング
シューズ アディダス アディゼロXT
ソックス Xソックス スピードワン
ウエア上 アシックス ノースリーブシャツ
ウエア下 パタゴニア
アームウォーマー CW−X
アウター モンベル ULウインドジャケット
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